「自由」について考える

「自由に弾きなさい」そう言われることは多いと思います。公開レッスンなどで「そこはもっと自由に」と言います。さて、では「自由」なのか。ここで結論を出します。「音」が「自由」だということです。
「自由」でないということは「何かの束縛を受けている」ということです。『大辞林 第三版 (三省堂)他からの強制・拘束・支配などを受けないで,自らの意志や本性に従っている・こと(さま)。』
では、音は束縛を受けるのか?それは受けます。たとえばテンポとか強弱とかです。また、演奏技術の限界などでも束縛を受けます。
1pesante
さて、ここで「ショパン:バラード第1番」冒頭①pesate(重々しく)私は、音を少しあとに残しながら弾くことにしています。「音は前に行きたくない。でも拍は前に進んでしまう」これは「音の意思からすれば留まっていたい、しかし前に進まなければいけない」という表現であり、音にとっては自由でないことになります。1
でも、同じ曲の②ではルバートをします。ここではこの曲の拍節の持つ拘束力があまり強くないので、このような場合、テンポは伸びます。音を時間の束縛から解き放した=自由にしたということです。他にも、協奏曲でカデンツァが来ると、拍節に音が縛られていたものから解放され、時間的に自由になります。オーケストラと一緒の部分では、強い拍節があり、ソリストの音を拘束していますが、カデンツァでは解放されています。

7
強弱の例です。「ベートーヴェン ピアノソナタ第7番」冒頭です。③ここではユニゾンで上行しています。普通だったらcrescendoをしたいところです。「音はcrescendoしたい」のだと思います。ところが指示では「ピアノ」です。(crescendoを認めている楽譜もあるそうですが、今はとりあえず考えないことにします)つまり、「crescendoしたいけどしない」という表現なのです。これはただ「ピアノ」というのとは違います。現実的に「crescendoしたい」というのを「無理やりピアノに抑える」そのために一つ一つの音に緊張感が走ることになると思います。
ここまで来て日常のレッスン風景を思い浮かべました。先生が「ここはピアノですよ」と言います。生徒はただ聞き従い「ピアノ」で弾きます。すると「音の意思(crescendoしたい)と、それに反発してピアノで弾く」という緊張感はおきません。音にした時単なるピアノの音が並べられます。これは「似て非なるもの」です。
Kaori Takamaさんが1月22日の私の文章にコメントした『「棒読み」よく分かります。ショパンコンクールを聴きに行った時に他の国のエントリーと日本でのそれと比較し強く感じました。』というのは、こういうところにも原因があるかもしれない、と思っています。「ただ言われたとおりにする」のではなく「深く自分で考えて演奏に生かす」ことの大切さがここからわかります。
自由という言葉に戻ります。
私は乗馬を時々していますが、「馬の自由」にするということは、「馬の行きたいようにする」ことです。とすれば、「音」の行きたい方をよく観察することが「音の自由にする」ことではないかと思います。「自由に」弾かなければ、と思ったら「束縛を取り除く」ことであり、「音の行きたい」ようにするということです。
「音」はどのように進みたいのか、留まりたいのか、大きくなりたいのか、小さくなりたいのか、はっきり主張したいのか、霞のようになりたいのか。それに対し、「音楽」の状況はどうであるのか、拍節がはっきりしているのか、強弱の拘束力はどうなのか。
そして演奏家はそのような「相反する事象」に折り合いをつけつつ演奏することになります。

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