びわこオペラ・ワーグナー「神々の黄昏」の聴かれ方
メディアという視点から
私は、2020年3月8日午後1時からライブ配信された「びわこオペラ・ワーグナー:神々の黄昏」を、リアルタイムで全部観た。この演奏、パフォーマンスに対しては、多くの人が最大級の賛辞を送っている。私もこの点では同じである。
さて、問題にしたいのは「この配信は、どのように聴かれたのか」ということである。
音楽、演劇は、もともと「その場所に行って観たり聴いたりする」が基本、というよりも、それ以外の方法を人類は持っていなかった。つまり「マクベス」にしても「アイーダ」にしても「誰それのピアノリサイタル」にしても「演じられ、演奏される場所」にその時間に行かなければ、鑑賞できなかった。「場所と時間」が決められ、それに拘束される。
音を記録するレコードができ、また動画を記録する映画、ビデオができた。それらがあると「会場に指定の時間」に行かなくても、装置さえあれば、いつでも見聞きできる。それらはさらに進化して、パソコンやスマホで、ほぼすべての人が、すべてのジャンルのものを、すぐに見ることができる状況にある。
私たちは普通「機械を通して音楽や演劇を観たり聴いたりする」ときと「実際にその場で生で観たり聴いたりする」ときと、明らかに態度が違う、たとえば、「機械を通して」のときは、チョコレートやお菓子をつまんだり、まわりの人とちょこちょこ話したりしながらということに、さほど抵抗はない。
たとえば、村上春樹・小澤征爾「小澤征爾さんと、音楽について話をする」という本を読むと、ちょっとした食べ物をつまみながら、いま鳴っている音楽について話をしている様子がよくわかる。
しかし、ライブのときは違う。クラシックだったらその「音」を一つも聞き逃さずに、少しの雑音も許さない。また、音楽の種類によっては「その場の人々と同じパフォーマンスをする」など「そのコンサートの内容に応じた観客の所作」といったものが出てくる。(もちろん、クラシック音楽の聴き方だって「所作」の一つといえる)
「チケットを買ってライブに行く人」は、自らお金を出して「場所と時間、またその会場における行動、態度の拘束」を受ける。わざわざ「時間と場所の拘束」によって「決められた所作」を行うことによって音楽を味わうのである。つまり、私たちはある意味で「不自由さを買う」のではないだろうか?ライブで演じられるものを聴衆個人が「もう一度今のシーンを見たいから」とか「もう一度さっきの曲を聴きたい」「この曲は飛ばして次へ」というわけにはいかない。「食事をしながら聴く」こともできない。観客は演者のパフォーマンスを止めたり引き返させたり、とばしたりできない。観客にふるまいは決められている。「決められたことをしなければいけない」という(もちろん静寂を保持するのだってその一つだが)観客の「緊張状態」によってライブは成立する。
今回の「びわこオペラ・ワーグナー:神々の黄昏」が、各聴衆の個人宅に、そのようなライブの「緊張状態」を作り出してしまったのではないだろうか?もちろん「ライブ配信」であるから「時間」には拘束されてはいる。しかし「新型コロナウィルス」による社会の不安、それとそれによって「無観客で演奏せざるを得ない」という劇場の非常事態(もちろんビデオ撮りだったら無観客だろうが)など、ふだんとは違う状態が、パソコンの前に座る人々の意識、態度を変えたように思う。パソコンの椅子は、びわこオペラのS席になった。その「緊張状態のなか」「ワーグナーをバイロイトで聴く所作」で、ワーグナーは鑑賞された。
今回に限って、「いつでもどこでも見聞きできる」という本来のyou tubeではなくなった、特殊な聴かれ方であったように思う。また「今回は特殊である」ということを踏まえずに「音楽のネット配信」は考えられないのではないだろうか?
2020年3月11日記