ピアノにおける原典版と解釈版=日本のピアノ教育=
「原典版」そのものにも様々な問題があるが、とりあえず今は「原典版」における「単純な音間違い」は除外して考える。
個々の演奏者が、作曲者の楽譜に書いた情報だけで、演奏まで持っていけるのだったら「解釈版」は完全に「参考」という位置づけになる。それは
「自分にふさわしい指使いが決められる」「フレーズや強弱、テンポの変化、その他のことが自分で判断できる」などである。つまり、本当の意味で「楽譜がよめる」とは、このことかもしれない。「自分の経験や知識、物事を調べる力、聴く力」などを総動員して、「自律的に」楽譜を読むことである。そこでは解釈版は「参考の一つ」に過ぎない。
それとは逆に「解釈版の指示に従う」ということも考えられる。
私がある楽譜屋で見たことだが、ある知らない人が、モーツァルトのソナタの楽譜を探していた。
その話の内容からすると、その年にコンクールの課題になったK.331の3楽章の楽譜が必要なようだった。いくつか探して「もっとも書き込みの多い」楽譜を選んで買っていった。「書き込みが多い」ということで「安心」するのだろう。「これだけのことをやればいい演奏ができる」「情報は多い方がいい」という考え方だろう。ここで「自分は(生徒は)考えるという手間が省ける」
一般に、日本での一昔前のピアノ教育の現場では、音楽之友社、全音楽譜出版社、春秋社の3つに楽譜を負ってきた。ドイツ、ライプツィッヒのペータースの焼き直しが多いと思われる。独自の校訂を行っていた井口基成の版も、ペータースを基準にしているように思われる。ショパンなどを見ると、ペータースのショルツの校訂(というよりも改竄)がそのままそれぞれの版に残っている。
私自身は、原点版云々という以前に「作曲者の筆致」を楽譜に残しているかどうかが気になるところである。
1.旋律線が長い音符で書かれているショパン
2.ペダル記号が書かれているドビュッシー
3,上声、下声それぞれのクレッシェンドなどが省略されているシューマン
4,見やすい調に変えてあったり、拍子が書き換えてあるバッハ
などを見つけたが、それらは楽譜が「その作曲家」らしく見えない。それらは日本のピアノ教育の中で「必要」であったことはわかるが「自分たちのものにするには」という真剣な問いが、ここでは欠けていたように思う。
そもそも、日本での「ピアノ教育の形態」は、先生が生徒と一緒に音楽を作っていく、あるいは生徒の音楽作りを先生が手伝う、というよりも
「生徒は先生の言うことを聞きなさい」
でやってきた。これは「子供のしつけ」の延長として大変都合のいい形態ではないのか。そこに「どうすればいいだろう」とあれこれ試行錯誤したり悩んだり、ということは存在しない。これは大人になってからの「趣味」としては不向きである。ピアノのレッスンの中では「考えて行動」することは教わってないからである。このような状況の中で「楽譜が読まれた」ということを「注意」しなければならない。大方日本のピアノ教育の中で「楽譜の読み方」は教わってきていないのではないか?
で「楽譜を読むおもしろさ」は伝えられてないのではないだろうか?
「楽譜を書くこと自体」作曲家は工夫している。そしてその工夫の仕方は作曲家個人によって違う。(もちろんその時代背景、社会環境や作曲家自身の演奏した楽器によっても違うのは言うまでもない)
「楽譜から起こす音楽」をやっている以上「楽譜を読むおもしろさ」が伝えられてこそ「自分たちの文化」になり「発信」もできる。私たち教師は「楽譜を読むおもしろさ」を日々発見し、試行錯誤し、その面白さを伝えていかなければならない。
個々の演奏者が、作曲者の楽譜に書いた情報だけで、演奏まで持っていけるのだったら「解釈版」は完全に「参考」という位置づけになる。それは
「自分にふさわしい指使いが決められる」「フレーズや強弱、テンポの変化、その他のことが自分で判断できる」などである。つまり、本当の意味で「楽譜がよめる」とは、このことかもしれない。「自分の経験や知識、物事を調べる力、聴く力」などを総動員して、「自律的に」楽譜を読むことである。そこでは解釈版は「参考の一つ」に過ぎない。
それとは逆に「解釈版の指示に従う」ということも考えられる。
私がある楽譜屋で見たことだが、ある知らない人が、モーツァルトのソナタの楽譜を探していた。
その話の内容からすると、その年にコンクールの課題になったK.331の3楽章の楽譜が必要なようだった。いくつか探して「もっとも書き込みの多い」楽譜を選んで買っていった。「書き込みが多い」ということで「安心」するのだろう。「これだけのことをやればいい演奏ができる」「情報は多い方がいい」という考え方だろう。ここで「自分は(生徒は)考えるという手間が省ける」
一般に、日本での一昔前のピアノ教育の現場では、音楽之友社、全音楽譜出版社、春秋社の3つに楽譜を負ってきた。ドイツ、ライプツィッヒのペータースの焼き直しが多いと思われる。独自の校訂を行っていた井口基成の版も、ペータースを基準にしているように思われる。ショパンなどを見ると、ペータースのショルツの校訂(というよりも改竄)がそのままそれぞれの版に残っている。
私自身は、原点版云々という以前に「作曲者の筆致」を楽譜に残しているかどうかが気になるところである。
1.旋律線が長い音符で書かれているショパン
2.ペダル記号が書かれているドビュッシー
3,上声、下声それぞれのクレッシェンドなどが省略されているシューマン
4,見やすい調に変えてあったり、拍子が書き換えてあるバッハ
などを見つけたが、それらは楽譜が「その作曲家」らしく見えない。それらは日本のピアノ教育の中で「必要」であったことはわかるが「自分たちのものにするには」という真剣な問いが、ここでは欠けていたように思う。
そもそも、日本での「ピアノ教育の形態」は、先生が生徒と一緒に音楽を作っていく、あるいは生徒の音楽作りを先生が手伝う、というよりも
「生徒は先生の言うことを聞きなさい」
でやってきた。これは「子供のしつけ」の延長として大変都合のいい形態ではないのか。そこに「どうすればいいだろう」とあれこれ試行錯誤したり悩んだり、ということは存在しない。これは大人になってからの「趣味」としては不向きである。ピアノのレッスンの中では「考えて行動」することは教わってないからである。このような状況の中で「楽譜が読まれた」ということを「注意」しなければならない。大方日本のピアノ教育の中で「楽譜の読み方」は教わってきていないのではないか?
で「楽譜を読むおもしろさ」は伝えられてないのではないだろうか?
「楽譜を書くこと自体」作曲家は工夫している。そしてその工夫の仕方は作曲家個人によって違う。(もちろんその時代背景、社会環境や作曲家自身の演奏した楽器によっても違うのは言うまでもない)
「楽譜から起こす音楽」をやっている以上「楽譜を読むおもしろさ」が伝えられてこそ「自分たちの文化」になり「発信」もできる。私たち教師は「楽譜を読むおもしろさ」を日々発見し、試行錯誤し、その面白さを伝えていかなければならない。