子供のころのピアノのレッスンの中で「自分の音を聴き、自分で考え工夫する」ということがされているだろうか?

こんにちは。
明石市魚住の大竹ピアノ教室の大竹道哉です。
本日もブログを発信していきます。


先日、大阪音楽大学「ピアノ×未来」の中で、仲道郁代先生は、初めてベートーヴェンと向き合うピアノ学習者、小学生や中学生に「指導者と一緒に一つ一つのことを考えていくこと」を提言されておりました。
でも、初めてベートーヴェンを弾くことになって「じゃあ、一緒に考えましょう」などと、いきなり切り出すわけにもいかないでしょう。そもそも、指導者が演奏や練習、指導のときに「生徒とともに考える習慣や方法」を持ち合わせているのか、ということだって言えます。
「子供のための曲」ということにも、ある種の問題があります。「子供のための曲」や「ソナチネ」の中には、作曲者によって「このようなことを書くと、子供の演奏では難しいから易しくしておこう」という配慮があることがあります。そうすると「考えなくてもある程度の形にはなる」こともあります。
しかし、ここで「ベートーヴェンのソナタ」や「ショパンのワルツ」「ドビュッシーのアラベスクや子供の領分」などには「こういうことは子供には難しいから易しくしておこう」などという配慮は、これっぽっちもないのは、言うまでもありません。
あまり難しいものを与えすぎて、いやになってしまうことも考えれば「易しくしておこう」の曲も、必要はあると思います。しかし、指導者がそのような判断なしに行くと「いきなりベートーヴェンで考えて弾きましょう」というのは、いくらなんでも無理のような気がします。つまり指導者が「考えて弾く習慣や方法」を、最初から用意しておく。また「考える」チャンスを逃さない。

たとえば、こういうこともよくあります。Allgro
の曲があったとしましょう。生徒はそれを知らずに、あるいは気に留めずに弾いてきたとしましょう。「記号を調べてこない」ことを責めるよりも、「この楽曲にふさわしいテンポや気分」を「弾いてみた印象から考えさせる」というのはどうでしょうか?これだと「弾いたものを聴く」「それにふさわしいテンポを考えてみる」『試してみる」「それを聴いて、曲に合っているかどうか考える」という過程を経るでしょう。その上で「Allegro」を知るわけです。ただ単に「Allgroは快速になんですよ!」といわれるだけではない、思考を経た言葉がここにあると思うのです。

レッスンの中で「考えるチャンスを逃さない」が必要なのではないでしょうか?

ところで、日本における初期のピアノ教育は「自分たちから発信する」という形はとれなかったと思います。それは「自分たちの中から出てきた文化ではない」からです。それは仕方がないとは思いますが、単に「習う」「真似する」ではなく「自分たちから発信できる状況にする」ということを考えられなかったのだろうか?

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