解釈版 一考察

以前、「ペダル記号の付いたドビュッシーの楽譜は、ドビュッシーのものに見えない」と書いたことがありました。おそらく日本では安川加寿子先生の版がそれに当たると思います。
本来、ドビュッシーの楽譜は「音の長さや書かれ方から、ペダルを演奏者が考慮する」ことを前提に書かれています。しかし、このことはあまり知識としてピアノの先生の間に広まっていないように思われます。この話はくどいほど書きましたが、子供のコンクールで「ゴリウォーグの~」が課題にでたとき、多くの子供が「立派な補助ペダル、足台」を準備しながら、以下の小節でペダルを踏まなかったのです。
これは「原典版にはペダルが書いてないから」「ハーモニーが濁るから」という理由でしょう。ドビュッシーを多少知った人からすると、それは「ドビュッシーの楽譜の書き方、読み方、弾き方、響かせ方を知らない」というほかないでしょう。当然、安川版にはここにペダルは書いてあります。
さてここで「ドビュッシーの楽譜につけられた安川先生のペダル記号」は、どのような位置づけなのか、ということです。
まず、演奏者=楽譜を見た人の思考の順序を考えてみました。
1.オリジナル(ペダル記号のない楽譜)の場合
音を読む→その音をどのように響かせようか考える→必要に応じてペダルを踏む
2.安川版(ペダル記号のついたドビュッシーの楽譜)
音を読む→鳴らす・それとは別にペダルが書いてある→書いてあるとおり踏む

2番はこれで完結してしまうと「安易な」譜読みになってしまうでことは言うまでもありません。そこに「作曲者はどのような響きを望んだのか」とか「今現実に、どのようにひびかせるのか」という問いは皆無です。確かに、どちらも肝心なときにペダルを踏みますが、2,には「目的意識」がないので、「響きの実現」とは関係なくペダルを踏むことになります。

では、このようなものはどのように考えると良いでしょうか。そうだ!「自転車の補助輪」です。
補助輪は「頼る」ためのものではないです。補助輪に「引っかからないように」練習していきます。そう考えると、このペダル記号も「頼る」ものではない。何のために踏むのか、また、それが音として実現しているかを考えつつ進めていくでしょう。つまり先生も安直に「ここに書いてあるから踏みなさい」ということは言ってはいけない。仮に、作曲者のペダル記号だって「なにをさせたいのか、音、音楽にどのあきら先ように反映させるか」を考えるべきでしょう。最初は2になってしまうかもしれないが、1へと導くのが「正しいありかた」だと思います。
そうすると、様々な「解釈版のあり方」も違ってきます。また、作曲者の「語法」にも敏感に気をつけていくようになるでしょう。
今井顕先生が「やさしいピアノ曲集・バッハ~シェーンベルク ウィーン原典版」の解説の中で述べていましたが、「吾輩は猫である。名前はまだない。」を「ボクはまだ名前のない猫です」とするのは、やはりおかしい。(ちょっと横道にそれるけど、夏目房之介氏によると、英訳では、I’m a cat.だそうです。う~ん「孫が読む漱石 新潮文庫 81ページ」)
少なくとも教師側は「補助輪なし」で楽譜を読み考え、組み立てられるような力を、つけておかねば、と思います。

先生はここでも生徒に「考える道筋」を「一緒に模索」するのが本当にその生徒の中に残っていく「文化」としての「演奏」につながっていくと思います。

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