記憶と音楽 考察続編

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音楽作品で、「形式や構造」というのが問題にできると思う。たとえば主題があり、対する第2主題がある。対比、つまり「聴き比べ」が起きている。「時間的に前に聴いたもの」を覚えていないと「今聴こえているものとの対比」や「以前との変化」といったものが理解できない。「聴衆の記憶」が働くことを前提として曲が書かれているから、形式や構造が成り立っているということである。
「変奏曲」だったら「主題」が変化する、ということは「「主題の記憶」があって初めて理解できる、ソナタ形式の「第1主題。第2主題の対比」や「主題の展開」にしても「第1主題のキャラクターの記憶」があるから「違うものが出てきた」ことや「展開されている」が聞こえてくる。もちろん和声構造もⅠ→Ⅳ→Ⅴ→Ⅰとなる場合、Ⅰが印象として残っているからⅣやⅤの意味が見えてくるわけである。

一昨日、昨日と仕事でホテルに泊まった。そこでは気が付かない程度の小さな音量で、ピアノの音でバックグラウンドミュージックがかかっていた。内容的には曲の展開も何もない。「形式」のない音楽というよりも音響である。そこにいて居心地の良い、気持ちの良い「音響」を作り出しているわけである。先日「音楽を聴くには聴衆の記憶を伴う」ということを書いたが、そのホテルでスピーカーから流れてくる音は、まさにこの対極ともいうべきもので、「耳に留めよう」とかいう気持ちの起きないものであった。(もちろんその音楽を作成する人は、そのような効果を狙って作っているわけだから、少なくとも私に対しては「うまくいっていた。成功だった」わけである)

「音楽を鑑賞する」というのは「聴衆に対して記憶を要求している」ということが、よりはっきりしてしまった。

ところで・・・西洋音楽で音楽家はかつては召使であった。その場その場で、その環境の雰囲気を良くするのが、主な役目であったのだと考えられる。先ほど私が書いたホテルでのバックグラウンドミュージックのようなもので、食事をしているとき、その気分を良くする、とか、お客様がいらしたときに歓迎するなど・・・・。
ところが、音楽家が音楽に形式、構造を持ち込むことは聴衆に対する「記憶して聴いてくれ」という無意識の要求ではなかったのか?ただ、「音響として消費される」ものから「音楽を記憶にとどめておくれ」という音楽家の要求。そして聴衆への「覚えながら聴く」という「能動的な聴くという行為」の要求。などが考えられる。

シャイベのバッハ批判なども、このような観点から考察する可能性がある。単に「バロックの終焉」や「貴族社会と市民社会」だけでなく、「音楽の構造と音楽家の自己主張、聴衆に対する能動的な聴取への要求」といったものである。聴衆に対して「より能動的に聴く行為をしてほしい」という要求が、バッハ側にあったと考えられる。
また「録音と音楽、音楽家」というのも考察できる。音楽家が録音に対してどのように向き合ったか、聴衆は録音媒体が出ることに寄ってどのように変化していったかなどである。
これらのことは、引き続き考察していきたい。また、これらのことが「日々の演奏や練習」にどのような変化をもたらすのか?音楽鑑賞とは何か?などもである。

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