「音」と「人間」
想像してみよう。おそらく1930か40年、あるいは50年代ぐらいまでかも、
町を歩いていて音楽が聞こえたら、人間はそこに「演奏する人間」を見出す。「音」と「人間」とは切り離せなかった、というよりも切り離すことすら考えなかったと思う。
「録音」を音楽に導入することにより、「音」を「採取」して持っていくことが可能になった。それは言うまでもなく「演奏する人間」と「音」とを切り離す、残酷な行為であった。人は無頓着に「録音」を「音楽」に導入した。そのうち人は「音」を聴いても「人間」を考えなくなった。「演奏」とは人間の「心の動き」が「肉体の動き」を通じて「楽器の動き」へ、さらに「音の動き」になって聴衆の耳に届く。
また、「作曲者の心の動き」は楽譜で記されている。「音」になる以前の「後ろ盾」があるはずである
私自身も「インターネット」「CD」「放送」という媒体を使って、これまで自分の演奏を発信してきた。今この瞬間にも、私の肉体から離れた「音」を聴いている人間がいるかと思う。これらの「後ろ盾」を無視して演奏を聴くこと、聴かれることには、ある種の怖さを感じる。「音」の後ろには必ず「人間」がいる。「人間」がいるということは、その人間の生活、文化など様々な総合されたものがあるということである。絶対忘れないでほしいし、私自身忘れてはいけない。