「音楽は癒し」だけで括られるのだろうか?
音楽を「聞いていて気持ちがいい」だけですませてしまうと。それは「気分を良くするため」だけになってしまう。
多くの過去の作品から「気分を良くする」ものだけを選び、スピーカーから流す。作曲家の言いたいことは「都合のいい」ところだけ抽出される。もちろんそれも必要だと思う。だから否定はしないが、もっと「気持ちのいい」部分だけではなく「聴く側も作品と対峙する」ことが必要かも。本当の残っている作曲家の作品は、演奏家と聴衆に「作品との対峙」を要求している。
だから「聴いてて気持ちがいい」だけで括られてはいない。たとえばドビュッシーの「月の光」は、癒しに聞こえるかもしれないが、「ベルガマスク組曲」全体を通して聴くと、決して「癒し」で終わったりしていない。バッハのインベンションも「ただ響きのよさ、心地よさ」だけで作られてはいない。だから単に「子供にピアノをレッスンする」だけでも、どのようにそれを伝えていけばいいか(もちろん生徒の年齢や発達に応じての配慮は、十分必要)心の隅に置いておきたい。
確かに「作品との対峙」として聴くには聴衆の「努力」がいる。しかし、それは「小説を読む」「絵画を鑑賞する」行為においても必要なことだ。