続・とても重要なこと
・seikoさんのブログ「正しい努力」にさらにこだわっていきます。
先生が公開レッスンを受けたすべての子供たちに対して言っていたことは「考えて練習をしなさい」ということ・・とあります。なぜ、「自分で考え」なければならないのか、また、「考えなさい」と生徒に言う以上、先生がしておかなければならないことは何か。この2つにこだわってみます。
1.なぜ自分で考えなければならないか。
人から言われてすることは、たやすいかもしれません。先生が、「こうやってごらん」生徒は「ああ、うまくいった」しかし、それはそこまでです。別の問題が出てきたとき応用や展開して使うことができません。人から教わったものは、ブラックボックスに入ったもののようです。中身がなんであるかわからないし、言われた以外の使い方がわからない。
一方自分で考えるということは、隅々までプロセスを踏んでいます。つまりなぜこのようにするか、なぜこのようにしないかが全部見えているのです。自分で考えた人にとってはそれは透明な箱の中に入ったもののようです。仕組みが全部わかっているので、新しい問題に対処する方法や、応用、展開の可能性も出てきます
2.「考えなさい」と生徒に言う以上、先生がしておかなければならないことは何か。
先生は、生徒にある問題について「考えなさい」という以上は、先生自身が解決方法を持っておくことだが必要だと思います。生徒の能力で、「これは解決できる」あるいは、現実に解決できることを知っての上で生徒に課題を与え、力をつけさせるということだと思います。
以前、中村紘子さんの本に、先生が生徒に「バッハでは哲学的な音を出すように」といい、生徒が「それはどのような音か」と聞いたところ、先生が生徒を何十回も叩いた。との記述がありました。…論外ですね。
哲学的な・・というのも抽象的ですが、具体的に言うならたとえば、和音の音の重ね方を変えることや、拍子、休符の感じ方や取り方について変えること、自分の音を聴くその聴き方を変えるなどによって、音が深みを増していくようになるでしょう。もちろん普段からいろいろな良い音楽や芸術に触れるとかもそうですし。とにかくそれらの解決方法を先生があらかじめもってそのうえで、「哲学的な音」という課題を生徒に課題を与えるべきでしょう。
また、生徒の考えた解答が、先生の方法と違うこともあると思います。正しければ「よし」としなければなりません。間違えていたら「どこが違うのか指摘すること」ができなければいけないと思います。もちろんその場で「もう一度考え直してきなさい」は言ってもいいと思いますが、そういうことをさせる以上、先生が「なぜ生徒の解答が間違っているのか」を分かっていないと無責任です。
以上の2点、大事だな、と思います。