作曲者の顔が見える作品
こんにちは。
明石市魚住の大竹ピアノ教室の大竹道哉です。
本日もブログを発信していきます。
子供のころ、いわゆる「教則本」といわれるものをやっていた。これらには「作曲者の顔」が見えてきにくい。トンプソン、バイエル、リラ・フレッチャー、バーナム、ラーニング・トウ・プレイなどなど、確かに作曲者や編集者の名前がタイトルになっているものが多いが、その音に「文化」を求めることがない。
「練習曲」になるともっとそうである。間違ったって「ハノン」には「作曲者の個性」や「フランスのエスプリ」なんてのは見えてこないだろう。
ところが、ある程度上達すると、「バッハ」「シューマン」「モーツァルト」「ベートーヴェン」「メンデルスゾーン」「シューベルト」というのが出てくる。これらの作品には「作曲者の文化」が「音」になっているものである。また、これらの作品は、直接「本格的な演奏の場」にかけられる。
「作曲者が、いつの時代どのような中でその作品を作り、演奏したか?」ということ。確かに作曲者は我々のために作品を書いているといえる、が、一義的にはその時代、その場の人、あるいはもちろん自身のために作品を書いた。
中学生ぐらいになると、ピアノの課題の中に「文化」がある。「突然そんなこと言われたって」
でも「音楽を聴く」ってその「音の文化」を聴くのではないだろうか?
だから、その「文化のある作品へのあこがれ」というのは、大きいのではないだろうか?
ピアノを続けるかどうかの一つは「音の文化を感じるか?」「作曲者の人を、その音の中に見るかどうか?」だと思っています。