よくない作品は・・・
こんにちは。
明石市魚住の大竹ピアノ教室の大竹道哉です。
本日もブログを発信していきます。
これは、難しい問題だとおもう。なにが「よくない作品」かを見極めるのは、主観が入ってしまう。しかし、いくつかは上げることができる。
・特定のパート(伴奏部分)などが、延々と変化しない、また和声上の工夫がない。
・伴奏だけ弾くと、和音展開が唐突だったりおざなりにⅠ-Ⅴだけだったりする。
・また、それらを補佐する音楽上の意味がなかったり、リズムが単調だったりする
など、指導者はこれらのことに用心しなければいけないと思う。というのもこれらの作品で「楽に考えずに弾ける」傾向のあるものが多いからである。つまり「考えたり工夫しなくても弾けるパート」があり、それを繰り返すと「考える必要がある曲を弾いても、考えたり工夫したりしなくなる」からである。
これらを延々と弾いていると「特定のパートを、ただ無表情で弾く」ことに陥る。これは、ベートーヴェン、バッハ、ショパンなどを弾くようになってきたときに「そのパートを無視する」弾き方へとつながる。「伴奏は静かに弾いてりゃいい」みたいな演奏になる。
先日、チャイコフスキーの「新しいお人形」について書いたのは、その弊害についてだと思う。勝手に「左手を伴奏」と決め込んで、無表情で静かに弾く、結果、曲の持つ微妙で繊細な心象風景や、緊張感は、聴こえてこない。
もちろん、エクササイズなどで、特定のパートが面白くなかったりすることはある。指導者はそのあたり「気配り」が必要。
だいぶ昔の日本のピアノ界の恩人である、※レオニード・クロイツァーは、いわゆる「音楽的に面白くないエチュード」を嫌って生徒にやらせなかったという。もちろんショパン・エチュードなどは、大いに演奏した。
よくない作品に慣れてしまうと、たいていは、和声感のない演奏をするようになる。しかし事態はこれでは済まない。和声感がないので、和声の変化で作り上げる「転調」が聞こえてこないのである。すると「転調」することによって成り立っている「形式」が聞こえてこない。
単に「上声のメロディー」がきれいなもので、展開しない小品 だけしか弾けないことになる。
このようなこともある。
この2つを比べたときに、どちらが無駄なくすっきりと聞こえるだろうか?
つまり、単にその「旋律」だけでなく、それをどのように工夫しているか、どのように聴かせているかが、作品の価値基準になる。
※博士論文「ハイフィンガー奏法による日本のピアノ教育の系譜:明治末期から井口基成の時代まで」
大地宏子・神戸大学大学院総合人間科学研究科・平成13年12月45ページ参照
「多くのエチュードは所詮練習曲であり、その性質上非音楽的たることは免れない。利益なくして害の多い所詮練習曲をなぜ日本人は弾いて、貴重な時間を空費しなければいけないのか、自分には解らない。日本の留学生が音楽的に進歩をしないのを見ても解るではないか。皆チェルニー等のエチュードのおかげだよ。」(一部現代文字かなに変換)