楽譜はなんのために発明され、どのような影響を与えたか?
音楽史の中の「発明」
音楽史の中での「発明」といわれる事項は、いくつかあるが、もっとも大きなことは
Ⅰ.楽譜の発明
Ⅱ.録音の発明
この2つの発明がもっとも大きい。今一度、原点に立ち戻ることを考えたい。
この2つには、「共通の目的」がある。それは「時空を超えること」である。もっとも世の中の発明のかなり多くは「時間を超えること、節約すること」「場所の制限を受けないこと」を目的としている。(全く余談だが、こう考えると究極の発明は「タイムマシン」と「どこでもドア」であるのかもしれない)
そしてこの2つに共通することは「複製とオリジナルの情報量に基本的に差がない」(と考えられる)ことである。あえてどちらも「デジタル情報」といってもいいかもしれない。「楽譜」も「録音」も「物」であり「客観的事実」として「存在」している。また「発信者」の手を離れたところで使われる。また、どのように使われるかは、全く保証できない。たとえば、録音でも楽譜でも、ある特定の曲の一部分だけが、その曲の文脈を離れて繰り返し聞かれたり演奏されたりする。
Ⅰ.楽譜について
もし、楽譜がなかったら音楽はどのように扱われているかを、考えてみよう。
1.音楽は極度に個人的なものになり「伝承」によってのみ伝えられる。その「伝承」が、どの程度正しく伝わっていくかは定かではない。また、正しく伝わっているかどうか検証の方法がない。
2.「音楽」が人間の「記憶」の範囲を超えることがない。よって「音楽」は単純なものになってしまう。
3.他人との合奏も「口約束」でできる範囲の単純さしか持ち得ない。
4.音楽の「量」も大変少なくなってしまう。
5.音楽が「一部の人」の物だけになってしまう。
つまり「音楽」が「限定された人々」の「限定された物」になってしまう。
→音楽の内容について弟子が師匠に依存する度合いが極端に高くなる。なども派生する。これが「音楽社会」そのものにも大きな影響を派生させる。音楽を教えるのはごく小さなサークルになり、大きな組織にはなり得ない。「音楽伝習所」のような物は存在し得るが、「音楽大学」や「アカデミー」のような一般市民に開かれた音楽伝承の方法は考えられない。
楽譜がない世界は、音楽が「発展」しない。
この「発展しない」ことについては、いくつかのことが考えられる。
1.音楽が複雑なものになり得ない
2.音楽が「正しく伝承」されなければいけないので、変化や発展、異文化との交流を嫌う。
3.音楽が「多くの人の目に触れる」チャンスが減る。
私見であるが、宮城道雄氏はこの点で積極的に「日本音楽」の「異文化との交流」を推し進めた感がある。楽器の改良や、洋楽器との合奏、ソナタ形式等西洋音楽の形式の導入、和楽器による西洋音楽の演奏など、自身もバッハを公開で演奏した記録が残っている。
楽譜の出現による「伝統の保持」と「伝統からの脱却」
楽譜はもともと「伝統を保持」するために作られた。グィードは、聖歌をいかなる場所でも同じように歌い、それが永遠に保持し続けられるために楽譜というシステムを作った。ところが「楽譜の出現」により「演奏者が継承者」である必要がなくなる。伝統は楽譜に置いておいて、人は楽譜をもとに「自由に」演奏できる。
これは、現代のクラシック音楽でも両面が起こっている。
現代で考えてみると「フルトヴェングラー」や「コルトー」は、伝統の継承者としての意識を持っていたと思われる。それに対し「グールド」や「ポゴレリッチ」は、伝統継承というものの中で考えていない。
ところで今の日本のクラシック音楽家で「伝統継承者」という意識を持っている人はいるだろうか?
楽譜があることにより
1.音楽の複雑化、発展
2.音楽の大衆化
3.音楽の「伝統の保持」と「伝統からの脱却」
4.音楽家個人個人の自立
5.他文化との交流
がなされたと考えられる。