指使いからちょっとした発見 ショパン:バラード第4番
Cherchons nos doigtés! (C.Debussy) 自分の指使いをさがそう! クロード・ドビュッシー
ここのところ、千葉の友人から頼まれて「ベートーヴェン:ピアノソナタ第23番(熱情)」の注意書きを書いていた。うちの奥さんの使った楽譜を見ると、3楽章のプレスト部分に12345123・・という指使いが書いてあった。これを試してみると結構ハマる。ベートーヴェンはひょっとして5から1に変えるような大胆な指使いを考えていたのかも、と考えてしまった。この曲の場合、指をずらしたり滑らしたりするとうまくいくところがあった。ベートーヴェンはこのような大胆な指使いを考えていたのでは?
ところで以前、ショパンの楽譜は「指が行くように書いてある」ということを記述したことがある。ショパンは「響き」ではなく「運指」を楽譜に書いていった。だから「響くべき音」ではなく「鍵盤を抑えるべき音」を長い音符で書いている。⇒こちらを参照
この続きとしてほんのちょっとした発見があった。ショパンのバラード第4番の一部分である。(譜例①)ここで書かれている音の長さを指で保ち、赤○の音を(ten.が書いてある)楽譜通り抑えていると、青○のそれぞれ4つの音は「1の指」で弾くしかない。そのとおりに赤○の音を「5指と2指」で抑えたまま青○の音を「1の指」で弾くと、一つ一つの音が強調されて、独特のテヌートがかかっているように演奏される。ルバートもかかるだろう。と私は考えた。
もし、私の前述の記述が正しいとすると、多くの版に見られるこの箇所の指使い(表)は違っていることになる。ショパンはこの個所で「1の指を使って弾くのを当たり前にわかってもらえる」と思って楽譜を書いたのかもしれない。と私は考えた。
「追記 2015年9月3日
127小節から128小節にかけて、バス音はA♭からG♯に変わっている。このような場合「G♯として抑える時間」をショパンは考えていたのではないかということ。このG♯音は「指を話さない音」としてショパンは楽譜に書いたように思える。
また、作品48-1夜想曲の中間部を見ても、この書法は徹底されている。赤丸の音符に注目。指を置ける時間の長さを楽譜に書いている。これらの音符を二分音符などで書かないのが、ショパンの書法に思える」
実際に弾いてみた。結論から言うと「可能である」やはり、青○の一つ一つの音は強調され、テヌートを帯びる。そして矢印の音(126小節Es,128小節Gis)は、左手の赤○の和音が外れた勢いもあり、より強調されて声高に響く。左手の和音が外れた時点で(↑)ハーモニーが変わるのがはっきりと聞き取れる。また青□の音は右手でとることになる。ショパンは10度を超える和音に、よくアルペジオを入れているが、このアルペジオもそれに近い意味を持つと思われる。
多くの編集者はここの部分を「なめらかに演奏するために」この青○の音に指使いを当てている。(表)ショパンの音楽はのちの人々が(彼が考えていたものよりも)「なめらかに、抵抗なく滑るような音楽」として解釈されてきたのではないだろうか。私が「探り当てた」指使いは、幾分ゴツゴツした手触りを感じるが、一つ一つの音がよりはっきり主張するように思われる。このような探求によってショパンの音楽に対する解釈が、変わる可能性がある。
ここで、バラード第2番の譜面を見てみよう。譜例② バスの切れたところで(↑)ハーモニーが変わり、曲想が展開していく。これとこの第4番を見比べると、非常によく似ている。
ショパンは左手の1の指に、どのような役割を担わせているかも見てみよう。ショパンは「左手の1の指」に多くを担わせる。これもその一つと思われる。以下は、エチュード 作品25-9の場合。⇒こちらを参照
また、バラード4番には次のような作曲者自身の指使いがある。譜例③ 舟歌 作品60 の左手の1の指に歌わせるのも見逃せない。譜例④
これらのことから、バラード第4番の先ほどの箇所には、筆者は、1を続ける指使いが妥当だと思われる。
これは些細なことかもしれないが、「ショパンは楽譜に何を書いたのか?」という本質的な問題を含んでいるように思われる。「指の動き」を書いたのか「響き」を書いたのか。ショパンに限らず注意深く楽譜を見ることの大切さ、根本を忘れないでものを見ることの重要さを改めて考えさせられた。
以下は参照楽譜の一部
エキエル・ウィーン原典版
エキエル・ナショナル版
クロイツァー版
ヘンレ版
井口基成版
コルトー版
ペータース版 ショルツ