解釈版・一考察・井口基成版の場合

先日は、安川加寿子版ドビュッシーについて考察しましたが、こうすると「井口基成版」について言及しなければいけないと思います。
様々な見方はあるでしょうが、大きく見るとかつて「井口版」が多くの作曲家を扱っていて、それを補完する意味で「安川版」のドビュッシーが使われていたように思います。(ただし、井口版にもドビュッシーがあります。念のため)
このような楽譜を大雑把に見てみると、当然といえば当然ですが
「余白の多い作曲家にたくさんの書き込みがされている」ということになります。
つまり、バッハ、モーツァルト、ハイドンなどです。前回に扱った「ドビュッシー」は「ペダル部分に余白がある」ということです。
つまりこういうことです。井口版は、学習者の「余白の部分をどうしたらいいかわからない」という要求にに答えている、ということになります。書き込みは、当然ロマン派の作曲家よりも、古典、バロックの作曲家の方が多いです。おそらくロマン派の作曲家の方が「オリジナル楽譜に近い」と思われます。(ただし、別の問題で、何版を底本にしたか、ということで井口版は重要な問題を抱えています。でも今は、「余白のあるなし」について考えていきます)
大雑把な言い方ですが、井口版の「バッハ」を開いても「シューマン」を開いても「同じように見えます」つまり、シューマンやショパン、ブラームスと、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、すべて「記号を同じように読む」ことで弾けることが考えられているのではないのか。という気がしてきました。
当然、作曲家の時代、個人個人の楽譜の書き方は違っています。ですから「読み方」も違います。(もっと言うと、作曲家個人でも一曲一曲違うはずだ)それを「とりあえずはcrescendoね」みたいに何も考えずに同じやり方で通してしまう。これが「井口版」の問題点の一つです。
でもこの「とりあえずは」というのもわかる気がします。この楽譜が編集された時代は、まだ日本に西洋音楽がきちんと教育されていない時代ですから「とりあえずは」演奏できるようになる。というのも「時代の要求」だったと思います。
ならば、そのようなことを総括し、問題点を洗い出し、次の世代につなげていくべきでしょう。それぞれ個性のある作曲家のメッセージを、受け取れるだけの知識、技術、文化があるべきだと思うのです。
日本のピアノ教育界が「補助輪」にどっぷり浸かっている時代は、もう終わってもいいと思います。自分で考える方法や手段、実現する方法を個人個人が身に付けることによって、ピアノは「自分たちの芸術」になっていきます。
この「楽譜の余白」という問題は、また論じたいと思いますし、日々のレッスンでも考えて実践していきたいテーマの一つです。

井口基成氏のソナチネの録音がありました。生き生きと弾かれているように思えます。

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