ツェルニー練習曲やハノンについての考察(1)
まず、最初に考えなければならないのは、ピアノレッスンで扱う曲には「目的となり得る曲」と「手段としての曲」が存在するということです。たとえば、純粋な練習曲「ツェルニー30、40、50」や「ハノン」「バーナムピアノテクニック」などは「手段としての曲」です。これらの特徴は、「練習に特化している」ことだといえます。つまり、芸術として聴かせる曲との違いは「特定の要素」に限定して曲が作られているということです。
よく「ツェルニー30番」が、「楽曲として物足りない」と言われますが、これは「楽曲として聴かせる」ことを最低限に絞り「特定のメカニックの習得」にのみ焦点を当てたので、当然と言えば当然です。ハーモニーやリズム、曲の展開などが単調である、とか、左手が添え物のようだ、とか、それらは「わざとそのようにして、メカニックの習得に焦点を当てている」のでしょう。
このような練習曲をレッスンで使うときの注意は
1.ショパンやベートーヴェンにあってツェルニーやハノンにないものは何かを、教師は常に意識する。
2.手段としての曲に固執しない。
まず、1についてですが「ツェルニーが弾けたからショパンも弾けるはずだ」などとゆめゆめ思わないことです。たしかにツェルニーの練習はショパンを弾くための一部分では役に立つかもしれません。しかし、ショパンはツェルニーのハーモニーよりも複雑、微妙で、テクニックも複雑に多くの方法が入り交ざったものです。拍子の取り方、リズムの感じ方もツェルニーでは最小限になっていますが、ショパンでは当然そうではありません。これらのこと「当たり前」なのですし、学習者はツェルニーにそのようなことを求めたりはできません。しかし、「どっぷりつかって」しまうと見えなくなってしまう。「ハノンやツェルニー」だけでピアノレッスンを行っていくことは、「素振りとノック」だけができれば「野球ができる」と勘違いしていることになると思います。
つまり指導者は常に「目的と手段」「全体と部分」を正確に把握しつつ、このような楽曲を与えることが重要です。
かつて日本で東京芸大を始め多くの生徒を育てたレオニード・クロイツァーは、いわゆる練習のための練習曲を与えなかったと言われています。私は指導者が生徒の状態を常に慎重に見極めたら、そのような方法はあり得ると思っています。ただもちろんテクニックは楽曲の中からつけていかなければいけないことはいうまでもありません。そのような場合「変奏曲」というカテゴリーは、よい勉強になると思います。モーツァルト、ベートーヴェン、ヘンデル、シューマン、ブラームス、近代ではカバレフスキーなど。もちろんこれらは演奏会のレパートリーになりえます。
ツェルニーやハノンは「特化」しているうえで効果はあると思いますが、教師は「何を特化しているのか」「そのためにないものは何か」を常に考える姿勢が大切だと考えます。
次回からは、もう少し立ち入って考察したいと思います。