ピアノ教師として反省とともにこの記事を書きます
以前、教師は生徒に「1を教えるのに10のことをやっていないといけない」ということを書きました。自分のピアノ教師としての体験の中から、具体的に例を出してみます。
例えば、譜例のようなソナタで、生徒の弾いた左手が大きすぎたとしましょう。次の2つの注意の仕方を考えてみました。
A、左手をもっと小さく
B、左手は、ここでは聞き役に回って、右手のお話をよく聞くように
ここでAの「左手を小さく」ということだけで、生徒を固めてしまうことがよくあります。これはなるのでしょうか?次の段階、より高い段階に行った時に弊害になります。例えばバッハのインベンションなどで、左手がどうしても歌えない、主張できない。などということにつながります。そこまでいかなくても、左手のハーモニーが感じられず、無味乾燥に弾いてしまうことにつながります。譜例の○について考えてみるといいでしょう。私は今までこのようなケースを例を多く見聞きしました。
単に「左手を小さく」ではなくBの「左手はここでは右手の聞き役である」ということを指摘してみます。単純に「左手を小さく」という注意で弾くのが「消極的」であるのに対し「聞き役として弾く」のは「積極的」です。また別の場所では左手が「主役」にもなる可能性を含んでいる注意です。また、ただ「小さく弾く」というのはニュアンスや表情がない感じを与えますが、「聞き役」であるというのは「聞き役である左手」が「主役の右手」に対し絶えず関心をもち、ふさわしい表情を与えます。例えばハーモニーが変わった○の部分、僅かにニュアンスを変えることなども、Aの「小さく弾く」という言葉では潰されてしまっていますが、Bの「聞き役」では生きてきます。今現在、そこまでのことが生徒にできないにしても、できるようになったら、そこまでする可能性を残した注意の仕方が必要です。
注意の仕方、考え方によって「この先がある」か「行き止まりになる」かが分かれてしまいます。
教師は10まで知っていて1を教える。そして生徒が10まで行くことができる道を残しておくことが、必要なのです。