芸術へ結びつかなくなる

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明石市魚住の大竹ピアノ教室の大竹道哉です。
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「何が芸術であるか?」を語るのは難しいけれど「これをすると、確実に芸術ではなくなる・芸術へは結び付かなくなる」ということは、言うことができると思います。
演奏の場合、「作曲家がこだわって書いたであろう」ことを「安易に無視する」ことによって「芸術ではなくなる・芸術へは結び付かなくなる」ということは言えます。
そのようなことは、普段のレッスンの中で「極力、避けなければいけない」ことだと思いますし、少なくとも
「指導者はそのことを熟知する。やむを得ない、たとえば生徒の理解力や演奏力、総合力が足りないなどの理由で安易な方法をとる場合も、指導者はそのことを自覚すべきだ」ということが言えます。

「これこれをすると確実に芸術ではなくなる・芸術へは結び付かなくなる」ということに関しては、今までかなりたくさん書いてきました。おそらく譜例などで示した「よくない、安易な奏法の例」などは、全部が当てはまると思います。私は「よくない、安易な方法・奏法」の多くが、ピアノレッスンの現場で「あるある」であることに、危惧を感じます。たとえレッスンの場など、今すぐに実現できなくても「音楽にそのような要素がある」ことを知ることが「芸術鑑賞への態度や音楽・音楽家への敬意」につながることになると思います。
また、子供のピアノレッスンで「芸術なんて」というかもしれませんが「バッハのガボット、ショパンのワルツや、モーツァルトのソナタ、メンデルスゾーンの無言歌、ドビュッシーのアラベスク」は、内容として芸術なのです。つまり、作曲家は「安易な方法や、妥協、あるいは難しいからやさしくしておこう」などという配慮や考えは一切持たずに、これらの曲を書いています。

さて、実例ですが、
まったく今までの復習みたいなものですが
ジグザグ読み・伴奏を安易にただ静かに弾く、などがあげられます。こちらも参照

これに対する「本格的な解決法」として私は「合奏の模倣としてのモデル」を考えました。これを本当に実現することは難しいのですが、これによって、より豊かなフィールドが開けてくることもわかりました。

1.それぞれの声部が、独立した自覚を持ち、自立・自律している。ピアノ(鍵盤音楽全般)は、合奏の模倣であり「複数の・多元的な意思を持った」声部によって、楽曲が成り立っている。
2.たとえば時間を扱う「数える」ということに関しても、同時に複数のサイクルが存在し、楽曲の中で機能している。

たとえば「数える」に関すること。あるパートは「一定のテンポ」を望み、別のパートは「もっとゆっくりの時間を欲する」などの可能性があります。つまり、これこそが「ルバート」(盗む)であるということ。そこに「パート間の力の駆け引き」という緊張状態があって、それが表現されることが、理解できると思います。
たとえ、テンポの数値が変わらなくても、ある特定のパートが「速くなろう」とし、別のパートが「一定に保とう」とすることも、もちろんあり得ます。すると、単に「一定のテンポ」といっても様々な表現の可能性が出てくるはずです。「一人は一つ」の考えに固執していると、このアイデアは出てきませんが、二重奏などでは、お互いの緊張状態は、よくあることです。

ショパンのバラード第1番のこの箇所では、左手は一定のテンポを刻み、右手は多くの装飾音符が、時間からはみ出すかのように並んでいます。つまり「左手はインテンポを欲し、右手はより多くの時間を欲して」います。
これらのことは「各パートが自律・自立している」ときにだけ、可能性のあることです。
音楽の内容としては、二重奏か四重奏かピアノソロであるかは、全体としては変わらないのです。同じ曲が、ソロだったり二重奏だったり四重奏だったりオーケストラだったりすることは、いくらでもあることです。ならば、四重奏で行われていることは、ピアノソロでも行われるべきです。

根本的に「受け手側の容量が少ない、あるいはそれをその形として受容する器がない」ときに、間違った受容のしかたがされ、それによって「作曲家がこだわったはずの」ことを無視してしまう。ということです。

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