「間違えないように弾きたいです」・・・・

「間違えないように弾きたいです」・・・・
これは、自分自身も反省なのですが、ピティナステップの演奏前のコメントや、発表会の演奏後の感想などに、最も多いのが「間違えなく・・・」という言葉です。
これは、単に生徒に対して「間違えなく・・・って書くのをやめましょう」と言えば済む話ではないし、そもそもそのような「強制」を先生が生徒にすること自体「生徒に対する締め付け」のような気がします。(仮にそのようなことが行われているとしたら、悲しいし心が痛みます)
これは「弾く人、聴く人、教える人」それぞれの立場で「自ら変わっていく」ことによって、いわば「社会的に」良くなっていくことでのみ、変わっていくと思います。ひょっとしたら「ピアノ関係者」だけではない、もっと大きな問題なのかもしれません。

「ド」と書いてあるところを「レ」を弾いた。それがここで言う「間違い」なんだろうな。最初の譜読みのときに、ただただ「書いてある鍵盤を押す」で、止まってしまう。要するに「間違えないように弾きたいです」というのは「ド」を「ド」と弾く「レ」を「レ」と弾くところで止まっている「思考停止」なのかもしれません。譜読みのときの「思考停止」があると思います。ここで、生徒は余裕がないから、思考停止状態であることは理解できますが、指導者まで「そこで考えを止める」のでいいのだろうか?

つまり「ドと書いてあったらドを弾く、それ以上のこと」まで気がいかない。聴かないということなんではないだろうかな?「その音が弾んだ音か、重い音か、軽やかな音か」そこまでいかない。また、その音が全体の中でどのような意味を持つのかまでいかない。
よくあるのが、臨時記号を落として「転調」として場面が変わるときに読み落とす。その「臨時記号」をつけるとともに、その「転調」によってどのように響きが変わったかを「聴く」こと、また、その「転調」のためにどの箇所から「次の転調の気配」を感じ、そのために「心も手も」準備するのか?そこまで見抜き、考えるのが「プロ」だと思うのです。
先日、モーツァルト:ピアノソナタ・ハ長調 Kv.545 休符について書きました。この休符を「どのように聴くか」がポイントです。このような考え方は演奏者だけでなく、生徒の保護者も含めた聴衆も、またそれを指導する先生も、もっと言うと、ピアノ教育界で活躍する指導的な立場におられる方々もです。それぞれの方々が常々「聴き方、考え方」を考えて実行していくことにより「豊かに演奏され、聴かれていく」循環ができると思います。私たちはもっと「聴き方」について考える必要があると思うのです。

指導者は、常に「合っている間違っているを超えた聴き方」をしているかどうか(それは譜読みのときからです)生徒にそれを伝えられるかどうかだと思います。
また、それぞれの立場で「音楽を豊かに聴く」聴き方といったものを実践、提示していく。そのようなことが必要だと考えています。

無料体験レッスン

【大竹ピアノ教室】トップスライド画像
1回45分程度の無料体験レッスンを受講いただけます。
必要項目をご入力の上お申込みください。
皆様のお申込みをお待ちしております。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です