今回は引用だけです
周知のように今や感動は巨大なマーケットであって、スポーツや映画と同じように音楽においても、心震わせ涙するためのパッケージ商品が世間に溢れかえっている。そして私たちは音楽についてのあらゆる情報を雑誌や新聞やテレビなどによって刷り込まれ、場合によってはいかにもそれらしい映像を見せられてからコンサートに臨む。「世界の○○フィルの芳醇な弦楽器の響き」とか「最後の巨匠○○が振るブルックナーの深い精神性」といった決まり文句は、それでも一応音楽に関わるものだから、まだいい。私が何より問題だと思うのは、近年増加途を辿っているところの、音楽家の人生を感動物語に仕立てて商売にするやり方である。それはもはや音楽体験ではない。音楽は、あらかじめ脳髄に植えつけられた物語を大写しにする、音響スクリーンとして機能しているだけだ。何に対してどんな風に感動するか、どんなお話をそこに投影するか、すべて前もってセットされているのである。まさに「感動の仕方」が他者によって誘導されているという点で、この刷り込み型の感動は、私が先に「未知なるものとの遭遇」と形容したような体験と、決定的に違っている。
岡田暁生著 「音楽の聴き方」 中公新書(2009)27ページ