私たちが受けてきたピアノ教育

私たちが受けてきたピアノ教育を、総括する必要はあるとおもう。前の世代は私たちに何を伝えて、私たちはそれをどのように受け止め、次の世代に伝えていくか。
その中には当然、「時代の空気」というものが大いに関係していたと思う。この関係の書物を見ると、必ずや見え隠れするのは「巨人の星的根性論」である。私が以前「桑田真澄選手」の発言を取り上げ、これと関連して考えていることと一致すると思う。ピアノのレッスンの中で「問答無用的に生徒は先生に従う。先生の言うことは正しい。」ということが推奨され、生徒から「自分で考える」ことを子供のうちに「そぎ落とす」という恐ろしいことさえなされていたのではあるまいか?
以下、「ピアノを弾く身体:岡田暁生著 春秋社」から引用 26~28ページ
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手の構えと作品/演奏の美学
岡田晩生
小さい頃に私がピアノを習っていた先生は、とても厳しい人だった。先生に教えられた通りの手の構えで、楽譜に書かれた通りの指使いで、「しっかりと」弾けるようにさらっていかなければ、激しい叱責が待っていた。先生に教えられた手の構えとは、今にして思うと「ハイフィンガー奏法」だったのだが、当時の私はそれだけがピアノを弾く唯一の「正しい」手の構えだと思い込んでいた。ピアノを弾く様々な「身体図式」があるなど、当時は知る由もなかった。ジャズ・ピアニストが指を伸ばして弾くのを見て不審に思ったこともあったが、「やっぱりジャズの人はだらしない我流で弾くからだめなんだな」などと考えて自分を納得させていたものだった。
また、楽譜に書かれた指使い(先生が書き込んだ指使いを含む)にしても、「偉い」先生が書いたものなのだから、それが一番「正しい」はずであり、問答無用で守るべきものだと信じて疑わなかった。そして当時の私にとっての「正しい」指使いとは、言うまでもなく、「最も弾きやすい=最もミスをしない」指使いを意味した。「リスクが伴うけれども表現次第では適切な」運指が存在するなど、夢にも思わなかった。
与えられた曲はいつも片手ずつでまず練習させられていたことも、よく覚えている。片手ずつ、信じられないほどゆっくりのテンポから、メトロノームを使って、どんな音もまずは大きな「しっかりした」音で(「ごまかさない」で)、一つも間違わずに弾けるようにさせられるのである。頭を空っぽにして、何も考えずとも「間違わないで」弾けるようになって初めて、両手を合わせて弾くことを許されるのだった。これは当時の私には苦痛きわまりなかった。片手だけだと和声の文脈などがわからないので、最初から両手で弾くよりもかえって曲を理解するのが遅くなるような気がした。
それに静かな曲でも大きな音で「しっかり」指を上げて弾かされるのには、子供心に閉口した。本来速いテンポの曲をスローモーションのようにゆっくり練習しても、かえって作品の流れ(ゲシュタルト)が飲み込めず、練習の効率が悪いような気もした。
今から思うと、まことにまっとうな疑問だったのだが、もちろん先生に向かってそんなことを言う勇気はなかった…。おそらくこの先生は、「自動化の幻想」というものをまことに無邪気に信じ込んでいたのだろう。「自分(=先生)の言う通りに指を鍛えていれば、いつかは指が心の思うままに動くようになるはずだ」― そんな幻想である。「心を無にした練習」を通して、「指の存在が無になる境地」へ。「自動的な練習」さえしていれば、いつの日か「自動化された指」が、「自動的に」得られるはずだという幻想。
指使いは「ただ守る」ものではなく、そのつど「一体なぜ作曲家が(あるいは校訂者が)そのような指使いを指定したのか」「どんな手つきを求めているのか」を考える必要があるなど、この先生は想像だにしていなかったことだろう。(以下省略)
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ここには、「ハイフィンガー奏法」の問題以前に「絶対服従」「問答無用」さらには「先生さえも考えることを放棄している」ことがまず問題として提示してある。先生が生徒に「考えること」や「音楽を感じること」をレッスンの中ではく奪するだけでなく、先生自らが「問答無用」「権威」に盲従している様子が見て取れる。私のまわりを見回してみると「ここに書いてあるようなレッスンを受けた」人は多い。つまり「ピアノレッスンを通して権威に盲従する」人間にさせられようとした。
このようなレッスンは、音楽的な見地から「自分の音を聴かない」「音について考えないようにする」訓練であるといえる。岡田氏は「音楽のゲシュタルトが飲み込めない」という「疑問」を持つことによって救われたが、もしこれで「音に対して意識を閉ざす」という反応をしたらいかがなものだろうか?この先生のもと「いい子」になってピアノを続けたら・・・・・まかり間違って音大にでも行ってピアノの先生にでもなったら・・・・・
私は、かつて戦後の高度成長期の社会で「組織に盲従する人間」が必要に思われていたのだと考える。そのような人間を養成する手段として「ピアノ」という「ツール」が使われていた。と考えている。うまく当てはまってしまったのだろう。「野球」という「ツール」もそのようにつかわれていたと思うが…
ここでは「ベートーヴェンやショパン」とは何の関係もない。ただひたすらいわれたとおりに「指を動かす」訓練があるのみである。
私は以前、「譜読みをレッスンする」という記事を「レッスンの友 2011年10月号」に掲載させていただいた。これは、この岡田暁生氏の上記の部分に触発されていたと思う。「譜読みの段階でとにかく思考停止にならないこと」を考えて書いたからだ。練習のどの部分にも意味を見出し、よりよい音楽の表現を目指すことだけを考えている。この文章を読み返してみると、ちょうど上記の文章の裏返しに思える
ただ、この記事「譜読みをレッスンする」は一部のピアノの先生から「難しい」との指摘を受けた。それは、「先生が絶えず生徒の様子を見て考えながら対処しなければいけない」とあるからである。上記の岡田氏の受けたレッスンは「先生も思考停止している」それから見ると私の文章では先生の負担は大きくなる。しかし、先生の本来の役割は「生徒の様子を見て対処すること」ではないのか?
正直、私も浅はかなレッスンをして生徒の心を傷つけたということを、白状しなければならない。そのためにも「声を上げる」ことをやめてはいけない。

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