譜読みについて「音の整理のしかたをレッスンで考える」
もうだいぶ前に「譜読みをレッスンする」という記事を「レッスンの友」に掲載しました。ピアノのレッスンの中で、譜読みはどのようなことをする必要があるのかを問い直し、より音楽の深い理解と、内容のある演奏に結び付けていこうというものでした。ピアノ教師は「生徒が正しく音を読んでいる」だけでなく「読んだ音を正しくグループ分けする」ことにも、配慮が必要です。
ピアノは、たくさんの音がいっぺんにならせます。このような楽器は多くありません。鍵盤楽器の特徴です。すると、楽譜を読んだときに「多くの音」を「整理」しなければいけなくなります。
シューベルト:即興曲作品90-2
左手は、Aのように読み込まれる。②で示した8小節の長いフレーズがここにはある。曲全体がゆったりとする。
私は「B」の理解は間違っているとみなしています。
Bには②に出てくる長いフレーズがなく、①のような絶妙なシンコペーションも消えています。
ここで、指導者は、生徒が安易にBと理解するのを見逃してはいけない。ということ。
譜読みのときに「B」として頭に入れて毎日弾いたら、そのうちに「A」になることはありえないです。
つまり、最初の段階で「A」に誘導する必要があります。
このような例は、枚挙にいとまがないです。何も「ポリフォニー」のように考えるのは「バッハ」だけではないということです。バッハで鍛えた「ポリフォニー能力」を使って、多くの作品を考えたほうがよさそうだと、私は思っています。
以前、何度も問題にしましたが、ワルツの左手も同じです。
5小節からの左手は、このようになると思います。バス音は響かせるので、二分音符にスタッカートくらいかと考えてみました。
②を弾いてみるとわかりますが、このパートはゆったりと8小節のフレーズを作っています。
こう考えると、せわしないですし、バスの長いフレーズが見えてきません。結果「無難な意味で小さい音で弾く」という処理に走ってしまうことになります。
おそらく「無難な意味で小さい音で弾く」という処理の仕方により、音楽の持つ豊かさを失っていることは、多いかもしれません。
きれいな演奏だけど、なんとなく退屈であったり、深みがなかったりするとき、このような原因が考えられます。
ということです。
読んだ音符をどのような流れの中に配置し、パート譜に分けて割り振る。全く編曲作業のような行為だといえます。そして「パート譜ごとに」弾いてみてそのパートがどのように動いて、全体の中でどのような役割をしているかも認識します。
一度、楽した状態で頭に入れてしまうと「本来の形」と違ったものを覚えてしまうだけでなく「頭の使い方」も両者では違います。
2つのパートとして認識し、それぞれに余裕を持った呼吸を与えるか、考えていけるといいです。