ピアノをやっていて見えてきたもの
ピアノを専門的にやってきて、もう何十年にもなります。一つぐらい、何かもっともらしいものを見つけただろうか?と考えてしまいます。
大切なことが見つかりました。それは「自分の中にいる多くの人」です。
私は、ピアノという楽器演奏は(鍵盤楽器全般でもいいです。このことに関しては、チェンバロ、パイプオルガンも当てはまります)「合奏の模倣」であると言い切りました。このことから見えてくることは多いです。
各声部(隠された声部や、浮かび上がってくるハーモニーなども含む)は、それぞれ各楽器が担当し、それぞれの楽器の奏者が「自立・自律」しているということです。それぞれの楽器が呼吸を持ち、音量、音質、ペースを持ち、独自に歌うことができる。そういったものの集合でこそ、合奏は成り立ちます。
すると「鍵盤楽器奏者」は、自分の中に「複数の人」を持つ必要がある。ということ「自分の中に多数の人」を抱えた状態で、演奏が行われていくことになります。
もし、ある一定のテンポで弾かれているとしても、それぞれのパートで「速くなりたいパート」と「ゆっくりでいたいパート」が同時に存在したら「均衡を保つのが難しくなり、緊張度が増す」はずです。そこでもし「一定のテンポ」という枠組みが、きつかったら「緊張度が増したまま」音楽は進みます。しかしその「テンポ」という枠組みがゆるかったら「それぞれのパートのテンポ」の間に「ルバート」が発生するはずです。
このようなことは「合奏」の中では考えやすいのですが、1人で行うピアノだと「緊張感関係なしに特定のテンポをとる」という「外面的なものをなぞっただけ」の演奏になってしまいます。
どうしても「自分の中に複数の奏者」を認めなければいけない・・・
「複数の人で行う」と考えられる楽曲は、意外と初歩から出てきます。たとえばマグダレーナ・バッハの音楽帳では、デュエットが基本ではないだろうか、と思えることがかなり多く出てきますし、以前指摘した、チャイコフスキーの子供のアルバムなどでもあります。(今ここで、全部列挙する時間と余裕はとてもありません・・・)
ピアノの練習の一つは「自分の中の様々の人に役割を与え、チームワークを組みミッションを遂行していく」ことと考えています。体の各部分が「何をするか」役割があるように、頭の中の各部分も「役割」があるものだと考えています。
ピアノを弾くときの「頭の中」については、これまでいくぶん述べてきましたが、結果「自分の中にいる多くの人」を見ているような気がします。
人間は「自分の中にも社会を持っている」と考えています。
参照:ピアノを弾くときの頭の中については「1」「2」「3」「4」「5」をご覧ください。